はじめに:あの頃の私へ。そして、今、息苦しさを感じているあなたへ

あの頃の私へ。
そして、かつての私と同じように、今、息苦しさを感じているかもしれないあなたへ。
毎日、周りの目が気になって仕方ないですか?
誰かに認められたい、褒められたい…その気持ちが強すぎて、心が疲れてしまってはいませんか?
かつての私も、いつも誰かの期待に応えようと必死でした。
親が喜ぶ顔が見たくて、会社で評価されたくて、「ちゃんとした人間だ」と思われたくて…。
30代を過ぎた頃からでしょうか。
周りから直接褒められる機会は減っていくのに、心のどこかで、私はますます他者からの承認を渇望するようになっていました。
ある日ふと、立ち止まる瞬間がありました。
「待って。他人の評価で、自分の満足や幸せが決まるなんて、どこかおかしいのではないだろうか?」
その問いは、妙に腑に落ちる感覚がありました。
しかし同時に、「じゃあ、今までの私の生き方は間違っていたの?」という、認めたくない気持ちが湧き上がり、動揺もしました。
もし、あなたが今、あの頃の私と同じような苦しさを抱えているのなら。
今日は、少しだけ時間を取って、私がどうやってその苦しみと向き合い、承認欲求という、誰もが持つこの感情と、少しだけ上手に付き合えるようになったのか、その道のりを、できるだけ正直に、そして分かりやすくお話ししたいと思います。
回り道も、たくさんの失敗もしました。
決して特別なことではありません。
でも、私の経験が、あなたの心を少しでも軽くする、小さなきっかけになれたら、と願っています。
1. 承認欲求の正体:問題は「支配」されること

まず、子どもの頃の「認められたい」という気持ちについて、少し触れさせてください。
子どもは、親からの「大丈夫だよ」という承認によって、生きる上で不可欠な安心感を得るものです。
もしそれが十分に得られないと、自分の居場所がないように感じ、自分の存在そのものが脅かされるような、深い不安を抱いてしまいます。
それは、まだ一人では生きていけない子どもにとって、ある意味で「命の危険」を感じる体験だったのかもしれません。
そして、その頃に満たされなかった「認めてほしい」という渇望は、大人になった私たちの心の中に、今もなお残り続けていることがあります。
想像してみてください。
もし、あなたの心の中にいる“小さなあなた”が、すぐ隣にやってきて、「ねえ、私(僕)はここにいていいのかな?」と、健気に問いかけてきたとしたら…どんな気持ちになるでしょうか?
…しかし、かつての私は、「認められたいなんて、もう大人なのに恥ずかしい」と、その素直な気持ちを必死に否定しようとしていました。
今、私が思うのは、問題なのは「承認欲求があること」それ自体ではない、ということです。
むしろ、その「受け入れてほしい」という切実な気持ちに心が支配され、コントロールできなくなることで、自分自身を見失ってしまうこと。
それこそが問題の本質です。
もしあなたが今、何か苦しさを感じているとしたら、その原因は、もしかしたらそこにあるのではないでしょうか。
2. 他人の期待に生きた日々

私がどのように承認欲求に振り回されていたか、もう少し具体的にお話しさせてください。
親の期待が、世界のすべてのように感じていた頃
私の両親は、「良い子」であることを望んでいました。
テストで良い点を取ること、スポーツで活躍すること、親の言うことを素直に聞くこと。
そうすれば、褒めてもらえ、安心した顔を見せてくれました。
だから私は、「親の期待に応えること」が自分の価値だと信じ込むようになっていました。
本当は、少し違う生き方にも興味があったけれど、「親を安心させたい」という気持ちが強く、世間的に「良い」とされる会社に就職しました。
それが、正しい道だと疑わなかったのです。
会社という場所での、見えないプレッシャー
会社員として働くことは、私にとって正直、とても苦しいものでした。
毎日決まった時間に、決まった場所へ行き、心からやりたいと思えない仕事をする日々。
周りのみんなもそうしているのだから、これが「普通」なのだと、自分に言い聞かせていました。
例えば、会社で資格を取ろうとした時のことです。
「毎日頑張って勉強しているんです」と周りにアピールすることで「すごい」と思われたい。
そして、「資格も取れないダメな人」だと思われたくない。
そんな見栄と不安で、心がいつも張り詰めていたのです。
10年以上働き、結婚し、子供にも恵まれました。
傍から見れば、順調な人生だったかもしれません。
でも、私の頭の中では常に、「仕事は我慢して働くものだ」という諦めと、「もっと自分の時間が欲しい」という渇望がせめぎ合っていました。
そんな時、昇進の話が舞い込んできました。
正直に言って、当時の私には荷が重すぎると感じていました。
本当は他の人が候補だったけれど、その方が辞退したために、私に話が回ってきたという経緯も知っていました。
自分の能力を冷静に見極められていれば、断るべきだったのでしょう。
でも、できませんでした。
「期待に応えなければ」「ここで断ったら、周りに笑われるんじゃないか」…そんな恐れが先に立ち、引き受けてしまったのです。
新しい役職で働き始めると、案の定、自分の能力不足と仕事の量に打ちのめされることになりました。
上司の口頭での指示がうまく理解できず、何度も仕事をやり直すうちに、「本当にこれでいいのか?」と疑心暗鬼になっていきました。
オフィスのどこかで同僚の笑い声が聞こえてくると、「また俺の悪口を言っているのだろうか」という考えが浮かんできてしまうのです。
何より辛かったのは、そんな自分自身をまったく信頼できなかったこと。
「どうして私は、他の人みたいに『普通』のことができないのだろう」——そうやって自分を責め続ける毎日でした。
3. 心の悲鳴と転機:「もう、これ以上は無理だ…」

「このままでは、心が壊れてしまう」
本気でそう感じていました。
現状を変えたくて、プログラミングの勉強を始めました。
平日は3時間、休日は6時間。
文字通り必死でした。
しかし、いざ転職活動をしようとすると、「面接で自分のスキルとして何が話せるのだろう?」「スクールで作ったものだけで通用するのだろうか?」そんな不安が次々と湧いてきて、結局、具体的な行動には移せませんでした。
それはまるで、不安をかき消すために無意識にご飯を食べ過ぎてしまうように、情報を過剰に集めてしまう――知識ばかりで動けない「インプットおデブちゃん」のような状態でした。
根底には、家族を養う責任や経済的な不安が大きく横たわっていたのです。
そんな時、妻から「自分の好きなことばかりしていて、ずるい」と言われました。
言葉が胸に突き刺さりました。
「家族のために良かれと思ってやっているのに、なんで分かってくれないんだ」という思いと、「いや、その気持ちを伝えようとする努力を、私が怠っていたのだから仕方ない」という後悔。
妻には、子どもが小さい時期に十分に頼れなかったことを、申し訳なく思っています。
周りの期待、会社での評価、家族からの視線…すべてを意識し、必死に応えようとしても、ただ空回りするばかり。
その結果、肝心の自分の心は置き去りになっていました。
「自分の人生を生きている」という実感が、全くありませんでした。
「私は、本当は何がしたいのだろう?」
「私にとって、大切なものは何なのだろう?」
どん底の気持ちの中で、ようやく本気で自分自身と向き合おうと決めたのです。
4. 自分を知る旅:自己理解という光

そこから、私は「自己理解」に取り組み始めました。
人の期待に応えることに必死だった私は、自分が何を楽しいと感じ、何を本当に大切にしたいのか、当時の私にはまったく分からなくなっていました。
だから、「自己理解」に取り組むことにしたのです。
最初は、本や動画で紹介されている、過去の体験を振り返るための質問に答えることから始めました。
そして、「あの時、時間を忘れて夢中になれたな」「これは純粋に楽しかったな」と思える過去の体験を、記憶の引き出しから思い出せる限り書き出してみました。
次に、日々の自分の感情…嬉しい、悲しい、イライラする、ホッとする…そういった心の動きを、スマホにメモすることも習慣にしました。
それを続けていくうちに、少しずつですが、今まで気づかなかった、あるいは見て見ぬふりをしていた自分の一面に光が当たり始めました。
「ああ、自分はこういう時に心が動くんだな」とか、「他人から見れば些細なことかもしれないけれど、自分にとってはこれが譲れないほど大事なんだな」とか。
もちろん、その過程は楽しいことばかりではありません。
むしろ、過去の自分の言動に対する恥や後悔など、痛みを伴うことの方が多かったです。
例えば、「なぜ、あの時あんな酷いことを友人に言ってしまったのだろう…」と、深く落ち込むこともありました。
しかし、そうした痛みを伴う経験を通してこそ、自分が本当に求めていること、つまり自身のニーズが明確になることも多かったのです。
辛い記憶と向き合うほど、自分が何を渇望していたのかが、はっきりと見えてくる。
まるで、存在すら忘れて埃をかぶっていた宝箱を、偶然見つけた時のような感覚でした。
そうして、自分を知るというプロセスそのものが、少しずつ楽しく、興味深いものに変わっていったのです。
かつて周りと上手くいかなかったのはなぜか、その理由も、以前よりずっと客観的に見えてくるようになりました。
私の場合は、「人に理解してほしい」という気持ちが人一倍強く、そのために相手に過剰な期待をかけてしまっていたのです。
そのメカニズムが分かると、不思議と対人関係での感情的な反応が減り、「最終的にどうするかは相手が決めることだ」と、健全な境界線を引けるようになっていきました。
そして、ただ周りに合わせて自分を殺すのではなく、「自分のこの部分を、もっと大切に育んでいきたい」「自分が本当に心地よいと感じる生き方を、これからは選択したい」という、内なる自分自身としっかりと繋がれた感覚。
それを取り戻すことができたのです。
5. 見つけた答え:「受容」と「素直」

自己理解を通して、私が特に大切だと気づいたことが二つあります。
それは、「受け入れること(受容)」と「素直になること」です。
① 良いも悪いもない。ただ、自分を知り、受け入れる(受容)
短所の裏側には、必ず長所が存在します。
なぜなら、ある人の持つ才能や特性が長所となるか短所となるかは、置かれた環境によって大きく左右されるからです。
例えば、「慎重さ」という特性を持つ人は、仕事のスピードが最優先される環境では「仕事が遅い」という短所と見なされてしまうかもしれません。
しかし、同じ人が正確さや緻密さが求められる仕事に就けば、その「慎重さ」は「細かいところにまで気を配り、質を高めることができる」という、かけがえのない長所として輝きます。
つまり、私たちの持つ特性それ自体に、絶対的な「良い」「悪い」はないのです。
才能と環境の関係性を理解すれば、「これが自分なんだな」と、良い悪いのレッテルを貼らずに、ありのままの自分を静かに受け止めることができるのではないでしょうか。
それこそが、私が考える「受容」なのだと感じています。
誰かと比べて自分に足りないものを数え、落ち込むのではなく、自分の中にすでにあるもの、自分だけのユニークな個性や性質に、優しい眼差しを向けてあげること。
正直に言うと、私自身も、自分の才能が「人に自分が学習したことを伝えること」だと、絶対的な確信を持っているわけではありません。
「本当にこれでいいのだろうか?」という疑いは常にあります。
でも、今は「それでいい」と思っています。
迷いながらでも、一歩ずつ自分自身を理解し、受け入れていく。
そのプロセスそのものが、大切なのではないでしょうか。
② 自分の心の声に、耳を澄ませる(素直)
もう一つ大切だと気づいたのは、自分の内側から聞こえてくる声に、「素直」になることです。
「周りはどう思うだろうか?」
「期待に応えられるだろうか?」
「ここは我慢しなきゃ…」
私たちは、常に外側の声や評価を気にしてしまいがちです。
しかし、そうしているうちに、自分の本当の気持ち…「本当はこうしたい」「なんだか、これは心地よくないな」「これをしていると、心が満たされるな」…そういった内なる小さな声が、聞こえなくなってしまいます。
大切なのは、まず、その小さな声に気づいてあげること。
そして、それを「そんなこと思っちゃダメだ」と否定しないであげること。
例えば、「人と比較するのは良くないことだ!」と、比較してしまう自分を無理に押さえつけようとすると、かえってその気持ちはどんどん強く、大きくなってしまいます。
なぜなら、人間は「~しないようにしよう」と意識すればするほど、そのことを考えてしまう生き物だからです。
試しに、「今から、黄色い猿のことを絶対に思い浮かべないでください」と言われたらどうでしょう?
言われる前よりも、かえって黄色い猿のイメージが頭から離れなくなってしまいませんか。
だから、ネガティブに思える感情や思考も、無理に押さえつけようとせず、まずは「ああ、自分は今、本当はこう感じているんだな」と、ただ認めてあげる。
それだけで、心はずっと楽になるはずです。
かつて私がそうだったように、承認欲求を満たすためだけに他人の期待に応え続ける生き方は、まるで塩水を飲むようなものです。
飲んでも飲んでも喉の渇きは癒えず、満たされるのは一瞬だけで非常に辛いものでした。
そうではなく、自分の「好き」という気持ちや、「大切にしたい」という価値観を道しるべにして、自分で自分の道を選び取っていくこと。
それが、「自分軸で生きる」ということなのだと、私は考えています。
おわりに:あなたの可能性を信じて
ここまで、私の長い、そして個人的な話にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
かつての私と同じように、承認欲求に悩み、他人の期待に応えようと必死にもがいていたかもしれない、あなたへ。
大丈夫ですよ。あなたは決して一人ではありません。
自分を知り、ありのままを受け入れ、そして自分の心の声に素直になること。
そのプロセスを通じて、きっと今よりも少し心が軽くなり、あなただけの、あなたらしい道を見つけていくことができるはずです。
すぐに答えを見つけようと焦るほど、辛くなって、投げ出したくなる時もあるかもしれません。
でも、自分を知る旅には、時間がかかるものです。
その「時間がかかる」ということを、まず受け入れてあげることが、実はとても大切なのです。
迷ったり、悩んだり、時には立ち止まって深く考え込んだりしながら、ゆっくりと、一歩ずつ自分自身と向き合っていく。
その時間そのものが、他の誰のものでもない、あなただけのかけがえのない、尊い道のりとなるはずです。
私は、一人ひとりが自分の内なる可能性を心から信じ、それを恐れることなく自由に表現できるようになった時、この世界はもっと温かい愛と感謝で満たされる、そう信じています。
これは、私の心からの願いであり、希望です。
だから、あなたにも、どうかあなた自身の素晴らしい可能性を信じてほしいのです。
この記事が、あなたが「認められなければならない」という長年の思い込みから少しだけ自由になり、もっと軽やかに、もっとあなたらしく輝くための、小さな勇気や、ささやかな光となれたなら、これ以上に嬉しいことはありません。
さあ、もしよろしければ、今日から、あなただけの「心地よい」と感じる方へ、ほんの小さな一歩を踏み出してみませんか?
心から、あなたの旅を応援しています。
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